Θオマエは誰だ?僕という人間を晒そう!Noガードふるちん戦法
エントリーNo.108
感性豊かに〜
表情豊かに〜
変幻自在の天然パーマ☆
TKP26研究生の たるお です♪
TKPとは天然・カス・パーマの略です!
今年27歳になります( ̄ ̄∇ ̄ ̄)
変態ですよ?
特に食べることに関しては( ̄^ ̄) エッヘン
・プリンはバケツプリン派です
・生クリームはチューブからが新鮮
・一ヶ月ヨーグルトがあれば暮らせます
・昼食はキムチのみでもいいです
・カレー2.0kgを10分58秒で完食
あと95個あるのですが、
スペースの都合上カット致します♪
もしかしてあなたも変態なのでしょうか?
確かに頭は天然パーマです( ̄┏Д┓ ̄)
・花見の席では僕の頭に花が咲く
・強風でゴミが入ると絡まる
・シャンプーがよく泡立つ
・プードルにモテモテです
ストパーに憧れた高校時代!
美容師から言われた言葉
根元からパーマがかかってるから
縮毛しても1週間くらいしかもたないよん
パーマの誇りを取り戻すため
チリチリアフロで過ごしました。
あっ、昨年からGTOになりました♪
あと、食べてばかりで太っちゃうので、
さいきんはテニスしてます(^^)
全打球フルスイングです♪ スタァプラチナァ!
○ ̄□ ̄)=○ ̄―_ ○-_-)=○)゜O゚).。・オラオラオラァ!
コートが小さすぎて入りません( ̄ヘ ̄)
打ち方から教えてください m(_ _)m
あとあと、料理にも挑戦してます!!!!
現在のレパートリーは
・キムチチャーハン
・黄金チャーハン
・鮭チャーハン
・そうめん
・カニチャーハン
以上の5品です!
お手軽チャーハンレシピ絶賛募集中♪
とまあ、そんなこんなで、
とてもじゃないけど父親のレストランは継げるはずもなく。ただ、ある日突然に、そんな父親のレストランが最大のピンチを迎えることになってしまったんです。
ここから先は僕の生い立ちになります!
なが〜くなってしまったので、
お時間があるときにでもお読みくださいませ♪
SPONSERD LINK
料理人の父ちゃんと料理人の母ちゃん、その間に僕は生まれました。小さい頃から活発な少年だったみたいで、よくご近所さん家の塀に登って怒られちゃってたんですよ♪
で、そこに妹を加えた4人で仲良く暮らしてました。
料理人の父ちゃんは土日も仕事で相手をしてもらえなかったんで、僕は妹と遊んだりケンカしたり、とにかくエネルギーが余りまくってたんですよ。
そんなある日、父ちゃんがサッカーボールをプレゼントしてくれたんです。僕はもう嬉しくて嬉しくて。毎日練習してました。リフティングを。父ちゃんの喜ぶ顔が見たくて、とにかく一生懸命練習したんです。
近所に友達も少なかった僕は、
「サッカー=リフティング」
だと思ってたんですけどね。
それでも上達するたびに親父に褒められるのがすごく嬉しかったんです。そんな中で漠然とだけど、将来はスポーツ選手になりたいなぁと思うようになりました。
ただ、5歳の頃、急に左足が動かなくなっちゃったんですよね。すんごく痛くって。それで母ちゃんが心配して、病院に連れて行ってくれたんですけど。
「スポーツ選手にはなっちゃダメだよ!」
病院の先生から言われてしまいました。
じつは左足の股関節が腐っちゃって。活発な人にごく稀に起こる病気らしいんですけど、そのごく稀な病気になってしまったみたいなんです。ペルテス病とかいうらしいです。
「治るけど、再発したら一生車椅子だからね」
病院の先生ってサラッと言うから怖いですよね。人生で初めて持った夢は、努力や結果とは関係なく潰れてしまった。そんな感覚ですよ。
ぶっちゃけ意味なんてよくわかってなかったんですけど、その言葉だけはずーっと頭に残ってました。夢ってかなわないんだなぁって。
で、待ちに待った小学校入学。もともと幼稚園でも同学年が5人しかいなかったんで、友達100人できるかなとかいう歌は衝撃でした。期待に胸を膨らましてたんですよ。足におっきなギブスを身につけて。
でもいざ同級生を目の前にしたら、何していいか全然わからなくて。だって沢山いるんですもん。どうコミュニケーションをとっていいか分からなかったんです。おまけにギブスまでつけてたもんだから、すっかりイジメの標的にされてしまって。
僕の小学校デビューはあっさりと失敗に終わっちゃいましたね。
そんな時に父ちゃんが独立開業しました。ちいさな洋食屋さんをオープンしたんです。友達のいない僕は毎日そこにいました。泣きながら飯を食ったり、それを見た父ちゃんにバカにされたり。お客さんに慰められたり。なんだかんだ楽しかったんですよ。
で、両親がじっさいに経営をしてるって状態なんですけど、その洋食屋さんで父ちゃんの料理を食べるのが1番の楽しみになってたんです。
ハンバーグとか、ビーフシチューとか、ドリアとか。めっっちゃ美味しいんです。お客さんとかも笑顔だし、それに何より、父ちゃんと母ちゃんの笑顔が僕の心をあったかくしてくれてたんですよね。
「心温まる大切な居場所ができた」
そんな気分でした。
でも僕は、毎日泣かされてばかりの日々を変えたかったんですよね。だから研究をはじめました。強い男とは何たるかを。毎日見てましたよ。ドラゴンボール。フリーザ様の強さにはシビれましたね。
そしてとうとう仕返しのときが来たんですよ。ギブスの取れるときが。その頃には身長も伸びてましたからね、力もついてたんです。背の順で前から2番目だった僕が、後ろから2番目になったんですよ。
男子の何人かは力でねじ伏せました。それでも怖い人もいたんで、手を出せない人もいたんですけどね。そして女子には、、、
「スカートめくり」
さんざん泣かされてきた相手を泣かすにはコレしかないと思ったんです。ただ、妹と殴り合いの喧嘩をして、父ちゃんに怒られた経験から、女子には手をあげてはいけないんだと察していました。
まぁ結果として、クラスの女子全員を敵にまわしちゃったんですけどね(笑)
それでも男子の中にはそれを面白がって、仲良くしてくれる人が少しずつ増えてきたんです。それがもう嬉しくて嬉しくて。
ちなみにやってたのは4年生のときです!
あの頃はスミマセンでしたm(_ _)m
でも、けっきょく繰り返すというか、なんだかんだでまたイジメの標的になっちゃたんですよね。高学年のときに。身体は成長してても、やっぱり人は、そう簡単には強くはなれないんだなぁと思いましたね。
で、中学へ進んでもイジメは終わらなかったんですよね。それどころか、別の荒れていた小学校の生徒たちも一緒になっちゃったんで、どんどんエスカレートしていくんです。
そこで僕はバスケ部に入部することにしました。バスケの強豪校だったんですよ、うちの中学校は。なんか強い人たちと一緒にいたら、ぼくも強くなれるんじゃないかと思って。
ただ、そこにイジメのボス的存在もいたんですよ。それもかなり上手いみたいで、部活の中でも人気者だったんですよね。僕に勝ち目はありませんでした。
でも、せっかく始めたバスケは辞めたくないし、バスケでは勝ちたいと思って、毎日毎日残って練習してたんですよ。上手くなれば僕もアイツみたいに人気者になれるんじゃないかと思って。
で、バッシュとかボールとか、バスケの道具ってお金がかかるんですよね。父ちゃんと母ちゃんはお金には厳しくて、お小遣いとか貰えなかったんです。もうね、必死にお手伝いもしましたよ。
だからみんなが使ってるようなカッコイイ道具は買えなかったんです。劣等感というか、上達しないのは道具のせいだとか思ってました。しまいには、お金をくれない2人のせいだとか。
ちょうどそのころ、父ちゃんと母ちゃんの店のことでもネタにされてて、だんだんと家が嫌いになっちゃてたんです。
とくに母ちゃんには強く当たってました。学校でうまくいかないストレスを全部ぶつけてたんです。毎日毎日泣かせてました。でも、学校のことも2人には話せず、どうにもできなかったんです。
2年生になる頃には、完全に口も聞きたくない状態になってました。反抗期だったのもあると思うんですけどね。純粋にウザいとも思ってました。
ただ、親に反発し始めてから、だんだんとイジメもなくなってきて、親に反発してると強くなった気分になれたんです。でも父ちゃんには逆らえませんでした。めちゃくちゃ怖いんです。
そんな父ちゃんは、ぼくに
「将来は公務員になれ」
って、ずーっと言っていました。
進路を決める時期になると、バスケ部の中にはプロを目指すという人もたくさんいました。ぼくもバスケがすっかり好きになっていて、本当はプロになりたいと思っていたんです。言えなかったけど。
でも僕はプロにはなれないんですよね。
ドクターストップってやつ。
他の部員たちが夢を語っていると何だか寂しい気分になりました。笑うようにはしてたけど。今ごろになって医者の言った言葉の重みを感じるようになったんですよね。夢って叶わないんだなぁと。
他にやりたいことがなかった僕は、とりあえず父ちゃんが言うコウムインってやつを目指そうと思った。受験する学校も父ちゃんが選んでくれたんですけど、これがまた難関なんです。
「とにかく公立に行け!」
と、さらに父ちゃんは言ってました。
必死に勉強しました。なによりその高校に入れば何かが変わるし、父ちゃんが僕を認めてくれると思ったんです。
その結果、、、
合格できませんでした。
罪悪感しかありませんでした。その反動で食べる食べる食べる。食べまくった。高校に入学するころには、なんと0.1トン間近。97キロのスーパーボディの完成ですよ。
あのころ憧れていたフリーザ様ではなく、どうやら僕はドドリアさんになってしまったようですね。
高校に入学して初日、僕は高校デビューを果たすべく、友達を作ろうと考えた。入学祝いで買った携帯電話を持って。でも、なんて話しかけたらいいかわからなかったんですよね。
そうこうしているうちに、クラス内ではグループができあがってしまって。もともと付属の中学のある学校だったんで、ある程度グループもできちゃってたりもして、またもデビューに失敗しました。
もうね、ぼっちですよ。ぼっち。
ぼっちのドドリアさんですよ。
クラスの中で何してるかわからないヤツっているじゃないですか。休み時間にもずっと席に座ってる人。あれが僕です。校外学習で1人だけ余る人いるじゃないですか。あれが僕です。
日に日に学校が辛くなっていきました。
イジメも辛かったんですけど、誰からも相手にされないのも辛いんですよね。自分の存在がないみたいで。校外学習や修学旅行なんて最低最悪の行事だったんですよ。本気で行きたくなかった。
でも、そんなこと親には言えません。
お金まで用意してもらって言えるわけがない。
何をやってても満たされないし、何がしたいのかわからない。毎日がホントにつまらなかった。だんだんその思いは強くなってきて、そのストレスをやっぱり母ちゃんにぶつけていたんですよ。
ちょっと話しかけられただけでも反発してましたからね。ウザいなって。何もかもにイライラしてたんです。悩みを相談する相手もいないから、もう、どうしていいか分からなかったんですよね。
バイトもしてみたし、とにかく何でも挑戦してみたんですけど、どれもイマイチぴんとこなくって、結果としてグレちゃったんです。朝は母ちゃんが学校に呼び出されて、夕方にも母ちゃんが呼び出される。
そんな高校時代をすごしていました。
高校卒業後は大学へ進学しました。
父ちゃんは相変わらず公務員になれと言っています。そのためには国立の大学に行けとも言っていました。私立はお金がかかるから止めてくれって。
ただ、けっきょく大学受験も失敗しちゃったんですよ。地元の国立大学には行けませんでした。言われた通りに頑張ったのに、けっきょく失敗してしまった。
僕はダメなやつなんだ。
自分の夢は何をしても叶えられない。
人から言われたことも満足にできない。
なんにもできないダメなやつなんだ。
そう考えるようになっていました。
国立の大学には行けなかったけど、父ちゃんと母ちゃんは喜んでくれた。それが何だか逆に辛かったんです。出来の悪い息子でゴメンとしか思えませんでした。何1つ期待に応えてない。
だから大学の費用は自分で用意しました。
せめてもの償い。
同時に、すこし期待してたんです。夢や目標は何もないけど、大学へ行ったら何かが変わるんじゃないか。夢や目標も見つかって落ち着くんじゃないかなぁと。もっと頑張ってみようかなって。
ダメでした
けっきょく勉強なんてしないで、毎日毎日あそんでばかりの生活。単位の取りやすい授業を探して、なんとなく過ごしていた。周りの人から見たら、もしかすると充実しているように見えたのかな。
大学に行くといろんな人がいました。その中でも、夢を追いかける人はキラキラしてたんですよね。僕はそんな人たちが大嫌いだった。なんだか自分が空っぽに見えてしまうから。
真面目に過ごしても、また失敗するだけなんじゃないか。正直なハナシ、僕はビビってたんですよ。だからそれを誤魔化したくて、「THE 大学生」になってしまったんですよね。
そんな遊んでばかりの生活でも、就活だけは早くから取り組んでたんです。もう試験に落ちるのは嫌だったから。筆記試験の対策なんかは2年生で始めてたりしてました。
早くからの準備のおかげもあって、大手企業に内定もバンバンいただきました。全てが順調で勝ち組になった気分。これで正しかったんだ。その時は本気でそう思っていたんです。
正直、僕は浮かれていました。
そんなある日、事件は起こった。
それは一本の電話から始まりました。
「お母さんが倒れた」
妹からの電話でした。妹から電話が来ることなんて中々ないので、すこしビックリしたんですけど、それ以外に感じることは特にない。
というのも、母ちゃんは高血圧だったので、気分が悪くて救急車を呼ぶことは以前から何度かあったんです。前にもあったし、今回もそんな感じなんだろうな。
まあ、迎えに行ってやるか。
病院に到着して案内されたのは
ICU
集中治療室だった。
え
何かの間違いだろ?
僕は病室へと入って行った。そこにいたのは父ちゃん、妹、そして管に繋がれて眠っている母ちゃんだった。心電図も動いている。僕は安心した。でも、父ちゃんも妹も、なんだか暗い顔をしている。
なんでだろう?
そこへ医師がやってくる。
「脳溢血です」
ノウイッケツ?
「一刻も早く手術が必要な状況です。ただ、たとえ手術が成功したとしても、右半身は不随となると思いますので、ご覚悟だけお願いいたします。」
ハンシンフズイ?
ナニイッテルノコノヒト?
ぼくは完全に頭が真っ白になっていた。そんな僕に父ちゃんが語り始めた。
「母さん、薬飲んでなかったんだよ」
母ちゃんは高血圧、それも相当なレベル。薬を飲まないと血圧200を超えることも頻繁にあるほどに高かった。そんな母ちゃんが薬を飲んでいなかったなんて意味がわからない。
なんで?
「店も大変で、ずっと家計が厳しかったんだ。お金は母さんに任せてたんだけど、いつからかわからないけど、自分の薬代を生活費に充ててたみたいなんだよ」
そんな話、一度も聞いたことなかった。いつの間にか健康保険まで解約していた。なんでそんな大事なことを相談してくれなかったんだよ。ほんとに。
相談なんてできるはずがない。何も知らない僕は、毎日母ちゃんを邪魔者扱いしていたから。中学でも高校でも、帰ってくると、しょっちゅう強く当たっていた。ほんとに泣かせてばかりだった。
脳裏に色々な記憶が蘇ってきた。自然と涙が溢れて、止まらなくなった。
そんな時、母ちゃんが目を覚ました。
目が合った。
泣いている僕を見た母ちゃんはビックリしていた。僕が泣いているからだ。
起こせない身体を起こそうとしている。
「アー、アー」と言葉にならない声を出しながら必死に何かを伝えようとしている。
じーっと心配そうに、今にも泣き出しそうな顔で僕を見ていた。
こんな時までオレの心配をするのか?
オレはバカだったと悔やんだ。思えばいつも優しかった。病気で夢を失った僕を、いつも近くで励ましてくれていたのは母ちゃんだった。
そんな母ちゃんを突き放し、
ウザったいとボロクソにし、
毎日あたり散らしてたんだ。
オレは自分のことしか考えていなかったんだ。
妹は学校を辞めた。
学費として払う分のお金を、
少しでも生活費に回したかったから。
僕は辞められなかった。
内定も決まっている。大学4年生。
ここで辞めるわけにはいかなかった。
情けない僕。
無力な僕。
もう罪悪感しかなかった。
でも、
やりたいことが見つかった。
僕は『母ちゃんを護りたい』
がむしゃらに働いて家族の生活費、母ちゃんの医療費を稼ぎ、そして真剣に生きることを決意しました。せめて就職までの間は何とか食いつないでいきたい。そんな思いで約1年間のトリプルワーク。
そして迎えた4月、なんとか就職まで辿り着いたんです。やっと家族を支えることができる。必死に働きました。7時に家を出て、帰れるのは25時くらい。
たしかに大変だけど、トリプルワークをするよりは全然マシだった。収入も前よりいい。 これでようやく母ちゃんを護れるぞ!
今度は父ちゃんが倒れた。
幸いにも命に別条はない。過労と糖尿病だった。母ちゃんの介護、仕事、副職、ぜんぶ弱音も吐かずにこなしていた。もともと人に頼らない人だけど、身体は限界に来ていたんです。
もしも自分の奥さんがそんな状態になったら。そう思うと父ちゃんが一番辛かったはず。僕はそれにも気づけなかった。何も見えていなかった。もっと父ちゃんを気にかけるべきだった。
ずっと2人で続けてきた店は、父ちゃんが守り続けてきた店は、突然経営ができなくなってしまいました。
僕の大切な思い出の場所。
僕にとって特別な場所。
そんな店が、まさか2人が倒れてなくなってしまうなんて考えたこともなかったんです。
で、入院費とかもそうですけど、何より実家の収入がなくなってしまって、もうお店自体たたもうかどうか。そんなところまで話が進んでいたんです。
けど、僕、心の底から思ったんです。
『この店を護りたい』って。
なんとか続けられないのかなって。父ちゃんの夢だったんですよ。店を作ってるとき、開店したとき、お客さんと話してるとき、料理をしているとき、父ちゃんはすごく嬉しそうだった。
そんな大切な店がなくなってしまったら、父ちゃんはどんな顔をするか。母ちゃんはどんな顔をするか。どう思うか。なにが起こるか。マイナスなイメージしか出てこなかった。
ただ、ぼく料理できなかったんですよね。。。
まさかこんなことが起こるなんて思っていなくて、いつまでも2人が店を続けてくれると思ってたんで、継ぐ準備なんて全然してなかったんですよ。
だから僕がお店をまわすってことはとてもじゃないけど出来なかったんですよね。今から修行するにしても、あまりにも時間がかかる。僕は実質的に何もできないこと知りました。
それでも店をなんとか護りたい。なんとか2人が戻ってくるまでは。僕は店をまわすこと以外の部分でなんとか店を護ろうと考えました。
まぁ父ちゃんと母ちゃんが元気になるまでは、家賃であったり維持費であったり、そういったものは僕が払ったり、それこそ、家族を支えるためのお金を自分で稼いで何とかしようと思ったんですね。
ただ、いろいろ計算してみた結果、全部で50万以上かかるという結果がでてしまった。
50万って、月に50万ってどういう金額かというと、サラリーマンのピーク時の平均月収と同じ金額なんですよ。サラリーマンとして30年働いて、やっと得られるか得られないかの金額だったんです。
20代の僕に稼げる金額じゃなかった。バイトも始めてどんなに頑張っても、寝ないで頑張っても、月30万が限界だったんですよ。僕はホントの意味でお先真っ暗になっていました。
このとき初めて、世の中ってオイシイ話、なんとかなる話ってないんだと心底思いましたね。
まあそうだとしても僕が働かないとどうしようもないので、やれるだけやろうと思ったんですよ。ただ、当然のごとくお金はまわらなかったんで、足りない分は借金するしかなかった。
一刻も早く、父ちゃんと母ちゃんに元気になってほしい。ホント運まかせでしたね。そのときっていうのは。
そんな日々が続く中で、ある日テレビで、20代で自分で事業を起こしている人の特集を目にしたんです。
「え?そんな人がいるの?」
って本気で思いました。何だかよくわからなかったけど、僕の中で一筋の光が見えた気がしたんですよね。将来につながる光になった。
でも、だからと言って何をやったらいいか分かりませんでした。学校じゃ何も教えてくれないし、友達にもいないし、知り合いに経営者さんがいたりもしませんでしたし。だから必死に探しました。
人づてにもそうですけど、とにかく色んなところを探しまわったりとか、それこそ本を読んでめちゃめちゃ勉強したんですよ。それでも状況は全く変わらなかったんですけどね。
そんなあるときに教えているという人、ビジネスを教えている人とホントにたまたま会うことができたんですよ。それで僕は必死にお願いしました。
「僕はどうしても家族を護りたい!だけど手段がないんです!とにかく家族を護るために教えてください」って本気で懇願したんです。これしか方法はないと思った。
その結果なんとか教われることになりました。
そして本格的にビジネスの世界に参入し、教わったことを実践する中で、初月で脱サラすることができました。気づけばそれから半年もたたずに、サラリーマンのピーク時の平均月収を超えるようになっていたんです。僕は泣いた。
稼ぐ力がついていったことで、家族への金銭的な援助もしっかりとできるようになった。運だと言われればそうかもしれないです。それでもいいんです。
僕は運がよかった。
僕は幼い頃に夢を失ってしまいました。
それでも自分の家族を護ろうと行動していくうちに、新たな夢がどんどん生まれてくるようになりました。この夢たちはこれから、自分のチカラで叶えていきます!
僕は夢を追うことは素直にできると思っていました。でも、現実はそうでもないところもありました。
だからこそ、僕はもっともっと笑顔であふれるような、本当の意味で夢を追いかけられる、心の底から楽しいと言える、そんな社会を創っていきたい!
「何をそんなに熱くなってるんだよ。」
むかしの僕が聞いたら間違えなく言います。
でも、一歩踏み込んで前に進んでいくことで、無理ができる可能性に変わり、その可能性を実現させるために行動する楽しさも知ることができました。
正直僕には失敗もたくさんありました。でも、それは次の人たちの糧にできると思うんです。僕がこれまでに経験したこと、これから経験することっていうのは、どこかで誰かの手助けに変えられる。そう信じています。
自分の子供や、これから親になっていく世代、ぞれぞれ一人一人が、キレイゴト抜きに大切な人やものを護れるようになったらなぁと思っているんです。辛い思いは僕だけで十分です。
だから僕は進み続けるんです。
母ちゃんが倒れ、父ちゃんが倒れた。あれから時は経ち、みんな元気に暮らしています。母ちゃんには介護が必要ですが、家族が1つになった気がする。父ちゃんも元気に洋食屋さんを再開してる。
いまおもえば、あのときの経験がなければ僕はきっと本気で腐ってたんじゃないかな。辛い時期があったからこそ、今の僕がある。
『やりたいことがない』
そんな僕はもうここにはいません。
たるお。
こ〜んなに長いハナシを最後まで読んでくださって本当にありがとうございます。
つい熱くなってしまい、家族や友人など、身近な人にも言えない話をしてしまいました。今回は僕の話ばっかりでしたけど、次はぜひアナタのお話をたっぷりと聞かせてくださいね♪
あっ、くれぐれも家族は大切に(^^)
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